川中島の戦いと信玄の方針転換

約12年に及んだ「川中島の戦い」の主な戦闘は計5回に渡りありました。最大の激戦になった第四次川中島の戦いが、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地の川中島を中心にして行なわれたことから、他の場所で行なわれた戦いも、総称として「川中島の戦い」と言われています。この最大の激戦だった合戦は1561年10月17日(永禄4年9月9日)からのことを指すことが多くなっていて、実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次です。川中島の戦いは、上杉謙信側が北信濃の与力豪族領の奪回を目的としていて、武田信玄側が北信濃の攻略を目的としている合戦です。武田氏の支配地は、この合戦で着実に北上しているといえるでしょう。

川中島の戦い

1553年(天文22年)4月に、村上義清や北信豪族の要請を受けた上杉謙信は本格的な信濃出兵を開始します。そしてそれ以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の第1次川中島の戦いがありました。このときは、上杉謙信方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破されました。謙信は武田家領内深く侵攻していますが、信玄は決戦を避けています。その後は謙信も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退しています。同年8月に、謙信の支援を受ける形で大井信広が謀反を起こしていますが、信玄はこれを直ちに鎮圧しています。

信玄は信濃へ進出するに際して、和睦が成立した後も緊張が続いていた駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めていました。1554年(天文23年)には、嫡男義信の正室に今川義元の娘・嶺松院を迎えていて、甲駿同盟を強化しています。また娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせて甲相同盟を結んでいます。今川と北条も、信玄と今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結んで甲相駿三国同盟が成立しています。三国同盟のうちで、北関東で謙信と抗争していた北条氏との甲相同盟は、謙信を共通の敵として相互に出兵しているため、軍事同盟として特に有効に機能した同盟になっています。1555年(天文24年)にも川中島で上杉謙信と対陣しています。

1557年(弘治3年)に、将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下されていますが、これを受諾した謙信対して信玄は、受託する条件として信濃守護職を要求しています。そして信濃守護に補任されているます。

信玄は北信侵攻を続けてはいましたが、謙信の上洛によって大きな対戦にはなりませんでしたが、1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いは、今までの一連の対決の中で最大規模の合戦となりました。武田方は信玄の実弟の武田軍副将:武田信繁をはじめとして武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助、三枝守直といった有力家臣を失っており、信玄自身までもこの合戦で負傷したといいます。

第4次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落して以後は、西上野出兵を開始していますが、この頃から対外方針が変化しはじめています。1564年(永禄7年)にも、上杉軍と川中島で対峙していますが、この時には衝突することなく第5次川中島の戦いを終えています。

川中島の戦い

  • 第一次合戦…1553年:天文22年
  • 第二次合戦…1555年:天文24年
  • 第三次合戦…1557年:弘治3年
  • 第四次合戦…1561年:永禄4年
  • 第五次合戦…1564年:永禄7年

方針転換した信玄

川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始しましたが、上杉旧臣の長野業正が善戦したため、信玄が望んだとおりの結果は得らることはできませんでした。しかし、業正が1561年(永禄4年)に亡くなると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻めたたてて、1566年(永禄9年)9月には箕輪城を落として、上野西部を領国化することに成功しました。

1560年(永禄3年)5月には、桶狭間の戦いで駿河で今川義元が尾張国の織田信長に敗死して当主が氏真に交代しました。そして今川領国では、三河で徳川家康が独立したことなどの出来事で、武田家でも動揺が走りました。信玄は義元討死の後に今川家との同盟維持を確認していますが、この頃には領国を接する岐阜でも信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しているため、信長は斎藤氏との対抗する上で、武田家との関係改善を模索していたため、このような経緯から諏訪勝頼正室に信長の養女が迎えられています。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴って武田と今川の同盟関係には緊張が生じているため、1567年(永禄10年)10月には、武田家で嫡男・義信が廃嫡されるという事件が発生しています。

義信事件とは?

1564年(永禄7年)7月に、信玄の嫡男・義信の養育係でもある飯富虎昌と、側近の長坂昌国、曽根周防守たちが信玄を暗殺するための密談をしていました。しかし、計画は事前に飯富虎昌の実弟の山県昌景の密書により露見しました。

1565年(永禄8年)1月に、謀反の首謀者として、虎昌以下は処刑されることになり、80騎の家臣団は追放処分になったといいます。さらに、信玄の嫡男・義信も3ヵ月後の10月に甲府の東光寺に幽閉されました。そして今川義元の娘と強制的に離縁されたうえ、信玄の後継者としての地位を失います。

そして、11月13日に異母弟の諏訪勝頼に、信長の養女遠山夫人を迎えてよしみを通じたといいます。この義信事件の背景には、第4次川中島の戦いの顛末や、勝頼が高遠城主となったことに対する不満があるとされています。

義信事件についての詳しい経緯は不明になっていますが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いでの今川義元の戦死や、翌年1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いの後、北信地域の安定を契機に、武田氏は対外方針を転換することになり、義信事件の後には今川氏との関係が悪化しています。1568年(永禄11年)には今川領国への駿河侵攻が開始されていますが、事件の背景には親今川派の立場にある義信と、今川領国への侵攻を志向していた信玄との間に派閥抗争が存在していたことを想定している説が有力になっています。

今川・北条との戦い

1568年(永禄11年)12月に、三河の徳川家康と遠江割譲を約束したうえで、共同で駿河侵攻を開始しています。そして薩垂山で今川軍を破って今川館を一時占拠しています。信玄は駿河侵攻に際して相模の北条氏康にも協調を持ちかけていましたが、氏康は今川方救援のために出兵しているため甲相同盟は解消されることになり、北条氏は越後上杉氏と越相同盟を結んで武田領国への圧力を加えています。さらに、徳川氏とは遠江領有を巡って対立しており、翌1569年(永禄12年)5月に家康は今川氏と和睦して侵攻から離脱しています。

こうした状況の中で、信玄は信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試んでいて、同年1569年8月には上杉氏との和睦が成立しています。さらに信玄は、越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏といった、北関東勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加えています。

1569年(永禄12年)10月には小田原城包囲を行い、撤退する際に三増峠の戦いで北条勢を撃退しています。このような対応策から、後北条氏は上杉と武田との関係回復に方針を転じることになり、この年の年末には再び駿河侵攻を行って駿府を掌握しています。

北条方では越相同盟の強化や、徳川氏・織田氏への呼びかけによって武田氏との対抗を模索していますが、無理の大き過ぎた越相同盟は機能することはなく武田方に圧倒されることになり、1571年(元亀2年)には隠居している北条氏康が「謙信との同盟を捨て、信玄と同盟し直せ」と遺言して亡くなっています。当時は亡き信玄娘を正室としてる北条氏政が全権を掌握すると、氏政は上杉氏との関係が悪化したことから北条氏康の遺言を実行して、武田方との同盟再締結に転じて、甲相同盟が再締結されています。