武田信玄公はどんな人物?

武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』で、信玄は名君そして名将として描かれています。それは、中国三国時代の蜀の国の諸葛孔明の人物像に仮託されています。ここでは軍学や人生訓に関する武田信玄の数々の名言が記されています。

人物像

信玄が発行した文書には、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されています。そのうち信玄による自筆書状は50点前後確認していますが、うち20点ほどは神社宛の願文になっています。信玄の私的な文書は皆無になっていて、信玄の人物像に迫るものや教養について伺える資料などは少なくなっています。

信玄の教養面では、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っているため、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残しています。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』など恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されています。

また、信玄は実子で嫡子・義信の廃嫡であったり、婚姻同盟の崩壊によって子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納していることから、親としての一面が垣間見える事実もあることから、甲斐の国の国主としての複雑な立場を指摘する意見もあります。

家紋

武田菱は、甲州武田家の家紋になっています。菱形を4つ合わせた形状になっていて、その知名度はとても高いものがります。元々は「割菱紋」と呼ばれていましたが、江戸時代に大量に描かれた信玄像で、武田信玄を表す家紋として使われていたため、「武田菱」のという呼び方が定着しました。信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋をつかっているため、その点では注意する必要があるでしょう。

旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまでありとあらゆる場所で武田菱を見ることができます。また山梨県警機動隊の車両といった装備品であったり、JR東日本の特急「あずさ」「かいじ」に使われるE257系のデザインにも「武田菱」が使われています。

領国統治

信玄の時期には、父・信虎期から整備されていた家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立していたため、在地掌握のための検地も行われて領国支配の基盤が整えられました。

武田家の本拠地でもある甲斐は、平野部の甲府盆地を有していますが、釜無川と笛吹川という二大河川の氾濫のために、利用できる耕地が少なくなっていたため年貢の収入に期待ができなかったため、信玄の時期には大名権力によって治水事業を行って、氾濫原の新田開発を精力的に実施しています。その代表的な事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点でもある竜王(現:甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げて、河川の流れを変えて開墾しています。

寺社政策では、寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っています。信玄は篤い仏教信仰を持っていましたが、領国拡大に伴って地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っています。特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護に、武田八幡宮の社殿造営、そして甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られています。

そして、日本で初めてになる金貨の甲州金を鋳造しています。甲斐には黒川金山や湯之奥金山といった豊富な埋蔵量を誇る金山が、信玄の時代に稼動していました。そして南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れて、莫大な量の金を産出することで、治水事業や軍事費に充当していました。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援といった、外交面でも金は大いに威力を発揮しました。ただし、碁石金は通常の流通には余り使われることはなく、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみることはできないため、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられています。

埋蔵金を探せ

山梨県の各地には「武田信玄の埋蔵金」と呼ばれる埋蔵金が、眠っていると考えられています。伝説では「諏訪湖に大量の甲州金を沈めている」「軍用道路として整備した棒道に埋めている」「配下の穴山梅雪に命じて甲州金を埋蔵させている」といった伝説があります。このような伝説がありますが、伝説らしく未だに甲州金は発見されていないようです。穴山梅雪の隠した埋蔵金は、「家康の伊賀越えの時に、別行動をとっていた穴山梅雪を倒した盗賊、書付を見つけて埋蔵金の三分の一を手に入れた」という話も残っていますが、そこで埋蔵金の三分の一を手に入れても、まだ埋蔵金は残り三分の二がまだ発見されていないため、武田信玄の埋蔵金は謎に包まれています。

武田家の家臣

武田家は勝頼の代で滅亡していますが、武田家の遺臣は徳川家によって保護されています。武田家の家臣の中には、幕府に仕えて活躍した人物もいます。また、甲斐では村落に居住しながら武田旧臣に由緒を持っていて、特権を保持していた武田浪人が存在していました。

江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行しましたが、武田信玄の時代の武田家の武将達の中でも特に評価の高い24名の武将を指して「武田二十四将」(武田二十四神将)と言われるようになり(、信玄の名は広く知られることになりました。この「武田二十四将」に選ばれた武将たちの時代は離れているため、24人の全員が同じ時期に信玄に仕えたことはありません。「武田二十四将」のほかに、「武田四天王」(武田四名臣とも)信玄・勝頼を支えた馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信もとても有名になっています。

武田24将

  • 横田高松(1487年?~1550年):出自 未詳…砥石崩れで戦死
  • 板垣信方(1489年?~1548年):出自 板垣氏…上田原の戦いで戦死
  • 小畠虎盛(1491年~1561年):出自 甲州小幡氏 …病死
  • 山本勘助(1493年?~1561年):出自 未詳…川中島の戦いで戦死
  • 原虎胤(1497年~1564年):出自 原氏 (千葉氏族) 病死
  • 甘利虎泰(1498年?~1548年年):出自 甘利氏…上田原での戦いで戦死
  • 飯富虎昌(1504年?~1565年):出自 飯富氏…義信事件で自害
  • 真田幸隆(1513年~1574年):出自 真田氏 病死
  • 馬場信春(1515年~1575年 ):出自教来石郷領主…長篠の戦いで戦死
  • 内藤昌豊(1522年~1575年):出自 工藤氏…長篠の戦いで戦死
  • 武田信繁(1525年~1561年):出自 武田氏 …川中島の戦いで戦死
  • 高坂昌信(1527年~1578年 ):出自 農民 …病死
  • 秋山信友(1527年~1575年):出自 秋山氏…岩村城の戦いで刑死
  • 山県昌景(1529年~1575年 ):出自飯富氏 戦死…長篠の戦いで戦死
  • 原昌胤(1531年~1575年 ):出自原氏 (土岐氏族)…長篠の戦いで戦死
  • 武田信廉(1532年?~1582年):出自 武田氏…甲州征伐で戦死
  • 小幡昌盛(1534年~1582年):出自 甲州小幡氏 …病死
  • 三枝守友(1537年~1575年):出自 木原領主…長篠の戦いで戦死
  • 真田信綱(1537年~1575年):出自 真田氏…長篠の戦いで戦死
  • 一条信龍(1539年?~1582年:出自 武田氏 …甲州征伐で戦死
  • 小山田信茂(1539年~1582年):出自 小山田氏 …甲州征伐で刑死
  • 穴山信君(1541年~1582年):出自 穴山氏…本能寺の変で戦死
  • 土屋昌次(1544年~1575年):出自 金丸氏…長篠の戦いで戦死
  • 多田満頼(生年不詳~1563年):出自 多田氏… 病死