武田信玄の名言集

『風林火山』の軍旗で知られる武田信玄は、数々の名言や格言を残した人物としても大変知られています。江戸幕府を礎を築いた徳川家康も打ち破っているため、もし信玄があと10年生きていたら、日本の歴史はまたちがっあものになっていたかもしれません。

武田信玄の名言集

『風林火山』~「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」

「三度ものをいって 三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である」

「百人のうち九十九人に 誉めらるるは、善き者にあらず」

「為せば成る 為さねば成らぬ成る業(わざ)を 成らぬと捨つる人のはかなき」

「もう一押しこそ 慎重になれ」

「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず」

「晴信の弓矢は 欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと 民に知らせれば、わしが軍を進めるのを 待ち望むようになる」

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

「晴信が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。時と場合によって自らその覚悟をする」

「勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは 大敗を招く下地となる」

「今後は、一人働きは無用である。足軽を預かっていながら 独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ」

「負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。 それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり」

「信頼してこそ 人は尽くしてくれるものだ」

「戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である」

「渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど 小細工である」

「一日ひとつずつの 教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか」

「人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ」

「自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ」

「いくら厳しい規則を作って家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない」

「我、人を使うにあらず。その業を使うにあり」

「大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である」

「武将が陥りやすい三大失観。 一、分別あるものを悪人と見ること 一、遠慮あるものを臆病と見ること 一、軽躁なるものを勇剛と見ること」

孫子に学んだ武田信玄

武田信玄の名言にもある通り「風林火山」といえば武田信玄と言われるほど、「風林火山」旗印がとても有名です。武田信玄は、平安時代に伝えられた兵法書の「孫子」を学んでいました。「風林火山」も「孫子」を出典とする兵法の心得です。「風林火山」の原文は「孫子」の軍争編に記されている、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」の一節を引用したものだといわれています。

「兵は神速を尊ぶ」という言葉があるように、合戦のときにはとにかくスピードです。進軍の速さが大事になってきています。風のように速く、そして炎のように相手を蹂躙することこそが合戦の要になるからです。

信玄は幼少の時に信玄の母・大井の方が招いた岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)和尚から「孫子」を学んだといわれています。岐秀元伯は、当代一の学問者との評判が高く一部にしか知られていなかった「孫子」にも造詣が深かったことは、信玄にとって幸運に恵まれていたともいえるでしょう。

岐秀元伯

臨済宗妙心寺派の禅僧で、甲斐国守護の武田信虎の妻大井夫人に招かれて西郡の長禅寺(古長禅寺)に移りました。

岐秀は信虎の嫡男の晴信(信玄)の養育に貢献しました。1555年(天文24年)に長禅寺は城下町として整備されていた甲府に移す事を許されました。『高白斎記』によると、1552年(天文21年)には長禅寺で、信玄の母・大井夫人の葬儀を執り行い、翌年年5月7日に大井夫人三回忌の導師を務めています。そして信玄が出家した際には得度式を務めていて「機山信玄」の法名を与えたといいます。