信玄の湯&信濃を平定するまで

喧嘩両成敗や分国法など、信玄が制定した「信玄家法」(甲州法度次第)は、日本民法典起草をする際に採用されたものなど、影響を受けているものがあります。戦国時代のものが今でも影響をもっているということは、信玄はすぐれた武将であり知将だったといえるでしょう。

信濃を平定

信虎の時代の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏だけでした。駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏とは同盟関係を持っていて、信虎時代の末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていましたが、父親を追放したことで家督を相続した時から信虎路線からの変更を行います。武田家は完全な一枚岩となって、天下統一にむけて信濃諏訪領への侵攻を行いました。

1542年(天文11年)6月に、信玄は諏訪氏庶流の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始しします。そして諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧しています。諏訪領では同年9月に高遠頼継が武田方に対して挙兵していますが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握しています。

武田方はさらに1543年(天文12年)には信濃国長窪城主の大井貞隆を攻めて自害に追い込みました。1545年(天文14年)4月に、上伊奈郡の高遠城に侵攻して、高遠頼継を、続いて6月には福与城主の藤沢頼親も滅ぼしています。。父の信虎時代には対立していた後北条氏とは1544年(天文13年)に和睦していて、それから後も1545年(天文14年)の今川氏と後北条氏の対立を信玄が仲裁することで、両家に大きな「貸し」を作りました。このことで西方に対しては安心することになった北条氏康は河越城の戦いで大勝したため、そのような動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていきました。

今川・北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させて、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清たちと敵対します。1547年(天文16年)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻めていき、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝します。また、領国支配でもこの年に分国法になる甲州法度之次第つまり「信玄家法」(後述)を定めています。

1548年(天文17年)2月に、信玄はは信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する「上田原の戦い」がありました。上田原合戦で武田軍は村上軍に敗れてしまい、宿老でもある板垣信方・甘利虎泰たちをはじめとする多くの将兵を失ってしまいました。そして信玄自身も傷を負ったため甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたといいます。この機に乗じて同年4月に、小笠原長時が諏訪に侵攻してきますが、信玄は7月の塩尻峠の戦い(または勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破しました。

1550年(天文19年)7月に、信玄は小笠原領に侵攻しますが、信玄たちの軍に対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無かっため、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走しています。結局、中信は武田の支配下に落ちることになりました。そして勢いに乗った武田軍は、2ヵ月後の9月に、村上義清の支城の砥石城を攻めこみましたが、この戦いで兵力で圧倒的な優位でありながらも、武田軍は後世に「砥石崩れ」とも伝えられる大敗を喫しています。戦況不利と判断した信玄は、撤退を決断しますが村上軍の追撃が激しく、追撃だけで1000人近い死傷者を出し信玄自身も影武者を身代わりにして、ようやく窮地を脱したとも伝えられています。

ところが、1551年(天文20年)4月に、武田の武将で、信濃先方衆の真田幸隆(ゆきたか)の策略で砥石城が落城したことで、武田軍は次第に優勢となり、遂に1553年(天文22年)4月に、村上義清は葛尾城を放棄して越後の上杉謙信のもとへ逃れていきました。こうして東信も武田家の支配下に入り、信玄は北信を除いた信濃をほぼ平定することになりました。

信玄が湯治した湯村温泉

信玄が傷を負い、約1ヶ月に渡って湯治をした温泉は「湯村温泉」です。この温泉街の里山にある湯村山には信玄の父・武田信虎の時代から使われた、湯村山城(湯ノ島山城)の跡があり遊歩道が整備されています。山頂には当時の烽火台(狼煙台)が再建されています。

808年(大同3年)に弘法大使師が発見したという説と、鷲が傷を癒している所をその当時湯村に住んでいた村人が発見したという説がありますが、信玄の隠し湯として志磨の湯と呼ばれていました。信玄といえば、隠し湯と言われるほど自分の兵の湯治を目的として多くの隠し湯をもっていました。信玄に仕えてきた真田氏も氏に倣ってかどうかは分かりませんが、信玄と同じように隠し湯を多く持っていたとされています。信玄の隠し湯を知ることで、信玄の時代どれだけ武田家が治めていたかも知ることができます。

信玄の隠し湯

  • 山梨県甲府市…湯村温泉
  • 山梨県甲府市…積翠寺温泉
  • 山梨県北杜市…増富温泉
  • 山梨県山梨市…岩下温泉
  • 山梨県甲州市…田野温泉
  • 山梨県南巨摩郡身延町…下部温泉
  • 山梨県南巨摩郡早川町…西山温泉 ⇒武田氏滅亡後は、その地を治めた徳川家康の隠し湯になる
  • 山梨県南巨摩郡富士川町…赤石温泉
  • 山梨県東山梨郡三富村…川浦温泉
  • 長野県長野市…松代温泉
  • 長野県長野市…加賀井温泉
  • 長野県松本市…白骨温泉
  • 長野県茅野市…横谷温泉
  • 長野県北安曇郡小谷村…小谷温泉
  • 長野県下高井郡山ノ内町…渋温泉
  • 岐阜県高山市…平湯温泉
  • 静岡県静岡市葵区…梅ヶ島温泉 ⇒武田氏滅亡後は、その地を治めた徳川家康の隠し湯になる

信玄家法とも呼ばれる「甲州法度次第」

こ上下2巻から成りっていて、上巻は57条で下巻は家訓になっています。武田信玄は名言や発言そして格言などが多く残っていますが、信玄の言葉は今でも仕事の上や生きる上でのヒントとなる言葉が数々あります。「信玄家法」では家臣団の統制や治安の規定などが中心に定められています。

「甲州法度次第」の内容

  • 国人・地侍が罪科人の所領跡という名目で土地を処分することを厳禁しており、領国全体を武田氏が領有することを定める
  • 国人・地侍が農民から理由なく名田を取り上げるようなことを禁止しており、農民を保護している
  • 訴訟時の際には、暴力行為に及んだものは敗訴とする
  • 6条には、年貢の滞納は許さず、滞納の場合は地頭に取り立てさせる
  • 家屋税として貨幣で徴収する棟別銭について、もし逃亡しても追ってまで徴収するか、連帯責任制によって同じ郷中に支払わせる
  • 57条に、隠田があった場合には、たとえ何年経っていても調査して取り立てる
  • 14条で、被官について、武田信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁止
  • 内通を防止するため、他国に勝手に書状を出してはならないことを定める
  • 17条で喧嘩両成敗。この考えが分国法にも取り入れされる
  • 浄土宗と日蓮宗の喧嘩禁止
  • 分国法は分国内のいかなることも拘束しており、末尾の条文には、武田家当主の武田信玄自身も法度に拘束されると記される