山梨といえば武田信玄

山梨といえば、武田信玄です。武田信玄の奥方の一人で、武田勝頼の生母でもある湖衣姫(こいひめ)の現代版湖衣姫を選ぶコンテストも行なわれるほどです。山梨の減口JR甲府南口にも「武田信玄公」の像があります。武田信玄あっての甲斐の国とも言われるほど、戦国時代を生き抜いた武田信玄は今でも山梨県民から深く愛されています。

甲斐の守護大名:武田信玄

武田信玄とえが、「風林火山」の軍旗です。この軍旗を使って、甲斐の虎や、龍朱印を使っていたことから甲斐の龍とも呼ばれていました。無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いて戦い、上杉謙信の良き好敵手としての人物像が伝えられています。武田信玄は、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の第18代・武田信虎の嫡男で、第19代の当主です。

生い立ち

甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として1521年12月1日(大永元年11月3日)に生まれて幼名は太郎です。母は西郡の有力国人大井氏の娘の大井夫人です。

甲斐国では上杉禅秀の乱を契機にして、守護武田氏の権威が失墜して有力国衆が台頭していましたが、信玄の祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥と、国衆勢力を服従させた国内統一が進んでいきました。

信昌期から父の信直(後の信虎)の頃には、武田宗家の内に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係したことで、甲斐は再び乱国状態となりましたが、信虎は甲斐統一を達成して、1519年(永正16年)には甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠とした武田城下町を開府して、家臣団が組織が整備されて戦国大名としての地位が確立されていました。

信玄の出生は父の信虎による甲斐統一の達成した時期にあたるため、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られている要害山城(ようがいやまじょう)になっています。要害山城は、積翠山城とも呼ばれています。

信虎は駿河国の今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部の有力国衆大井氏と対決していましたが、1521年(大永元年)10月には今川家臣の福島正成が率いる軍勢が甲府に迫ってきましたが、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦で福島勢を撃退しています。この際に、大井夫人は詰城の要害山へ退いていたといわれているため、信玄は要害山城で出生したといわれています。兄の竹松が7歳で夭折したため、信玄が嫡男となりました。

1525年(大永5年)父・信虎と大井夫人との間に、信玄の弟・次郎(武田信繁)が生まれました。『軍鑑』によると、父の寵愛は弟の次郎に移ったため勝千代(太郎)を徐々に疎むようになったと言います。養育係は不明になっていますが、『軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役(養育係)であった可能性を示しています。

信虎の後期には、駿河今川氏との和睦が成立したため、関東地方で相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡で北条方との抗争を続けていました。

1533年(天文2年)に扇谷上杉家(武蔵国が拠点の大名)当主で、武蔵国川越城主の上杉朝興の娘が晴信(信玄)の正室として迎えられています。間違いなく政略結婚になっていますが、晴信(信玄)と彼女の仲は良かったと伝えられていますが、1534年(天文3年)に出産のときに、難産だったため妻も子どもも死去しています。

1536年(天文5年)に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り名前を「晴信」と改めています。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されています。

元服した後に、継室として左大臣・三条公頼の娘・三条夫人を迎えています。この年には、駿河で今川氏輝が死去しています。花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しているため、三条公頼の娘との婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋からでの婚姻とされています。『軍鑑』によると、京都からの輿入れの記事も見られています。晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としていますが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭という時期的問題から疑視もされていす。

信虎は諏訪氏や村上氏たち信濃豪族と同盟して信濃国佐久郡侵攻を進めていますが、武家の初陣は元服した直後に行われていることが多いため、『軍鑑』によると晴信の初陣は1536年(天文5年)11月に、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めだとしています。『軍鑑』に記されいるとおり、晴信が城を一夜で落城させたという伝承は疑問視されてはいますが、おそらく初陣は時期的にみてもこの頃だと考えられています。

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍して、1541年(天文10年)の海野平合戦にも参加していますが、信虎は信玄の姉にあたる姉の嫁ぎ先駿河の今川義元の所に娘を訪ねていきます。甲斐を離れた信虎を好機ととらえて、信玄と弟の信繁、そして甘利虎泰や板垣信方といった重臣たちと団結して甲斐と駿河の国境を封鎖しました。そして信虎が甲斐の地を踏めないように封鎖することで、信虎を甲斐から追放してしまいます。父を追放した晴信は武田家の第19代目の家督を相続することになりました。

父信虎との確執

武田信玄は戦国時代の軍師としても名高い武将ですが、幼い時から英才教育を受けていました。母親大井の方が招いた岐秀玄白禅師から幼い時から手ほどきを受けているため、戦国武将の中でも高い水準の教養を習得しています。

そして、成長するとともに将来の武田家を率いるのにふさわしい人物へと成長していきました。武勇の誉れが高い人物で、かなり若く時から戦場に出て戦っています。そして甲斐を統一したほか、駿河から乱入した福島越前率いる今川の大軍も撃退しています。なかなか武勇の優れた人物でいるのは間違いないのですが、政治力と言う面では疑問点がつきます。大飢饉が起こった時にも、有効な対策を打ち出すことが出来きなかったため、家臣の気持ちとしてはどうだったのでしょう。

英才教育を受けて利口な信玄を、信虎は疎ましく思い遠ざけていきます。そして、信玄よりも4歳年下の弟・信繁を可愛がるようになり、嫡男の信玄を飛び越して家督を譲るのは信繁に。と考え始めます。臣下の目にも明らかになるほど、信虎と信玄の関係は悪化していきました。そして16歳の時の初陣のときにも、信虎が攻めあぐねた城を計略を使い見事に攻め落としたのですが、信虎は凱旋した信玄に一瞥をくれただけで褒めることもなかったとも言われています。甲斐をまとめた点では信虎の功績であることは間違いありませんが、信虎自身はまさか自分が追放されるとは思っていなかったことでしょう。